教会と信仰のあれこれ

1つゴミを拾ったら道端のポイ捨てが気になってまう

昨日15,000歩を歩いたんですよ。
そしたら歩いて5分で足元にペットボトルが落ちていたんですよ。

ちょっと悩んだ末に拾ったんですよ。
目的地までに自販機が何個もあるのは知っていたので。

そしたらゴミが目に入る目に入る。
たった10分で手元にあるペットボトルのゴミが3本に増えました。
その3本を拾うまでにも袋や缶を「1本ぐらいならいけるわと思って軽く拾ったけれどこんなにいろんな種類のゴミは持てねえよ・・・」と思いながら泣く泣く見逃しました。

ペットボトル・缶用のゴミ箱が見当たらないんやけど。
なんでや。

コンビニもない道なので、自販機の横にあるゴミ箱頼りだったんですけれど、結局目的地に着いて家に帰るまで(往復1時間20分)ゴミ箱が1つも見つかりませんでした。
なんでや。「ゴミはその辺に捨てないで自分で持って帰って処理しようね」というメッセージか。そうかそうか。なるほど一理ある。業者の人が回収するのも大変だしね。

結局自分のカバンの中に入れて目的地まで向かい、家まで持って帰りました。
カバンの8割をペットボトルが占めていました。

ゴミはちゃんと指定のゴミ箱か家に持ち帰って捨てましょう!私も今一度気をつけます!

家帰って洗ったらペットボトル内に虫がいっぱい入っているものがあって戦慄しました。笑
ぱっと見わからなかったのに・・・。恐るべし。

私の住んでいる地域には捨てられるゴミ箱がいっぱいあってありがたいなと思いましたね。それでも溢れてたり道端に捨てられているゴミを見たりしますけれども・・・!

まじで1個片付けようとしたら脳の『ゴミは処理するぞスイッチ』が入っちゃって、他のゴミがぜーーーーんぶ目に入ってくるのよ。
めっちゃ困った。生半可な気持ちで取り組むべきじゃなかった。
でもどうせやるなら徹底的にやりたい。まじで。今年はCGMの清掃ボランティアに参加してみようかな。

「いつでもどこでもゴミが捨てられるってすんげえいい環境だったんだな」と実感しました。ゴミ箱があると思って拾ったのに、なかったからずっと持っていないといけないっていうね。

ほんで同時に悔い改めに関する聖句を思い出しました(隙あらば聖句引用)。

3:23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 3:24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

ローマ人への手紙 3章23-24節

5:24しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。 

ルカによる福音書 5章24節
※「人の子」は「イエス=キリスト」のことです!

すんげえざっくり言うと「罪」➡︎「神様が」願っておらず、OKしていないことです。
社会常識は親・先生・友達・先輩など誰かに教えてもらえないとわからないように、神様がいう「罪」も聖書を読んでみないとわかんなかったです。神様のおっしゃる「罪」は、司法や常識の観点と比べて、合致する部分・発展した部分・より根本に切り込んだ部分がありました。『えぇ?それあかんの?まじで?』みたいなところもありました。笑
学ぶと面白いです。ぜひキリスト教福音宣教会で学んでみてください(隙あらば宣伝)。知っておいて損しないと思います。

キリスト(救い主)であるイエス様を信じて、その御名で悔い改めるならば、許される。清くなる。綺麗になる。
信じるなら時間も場所も問わずに、悔い改めの祈りができます。
学んだ時は「ほーん?そうかそうか」と思っていましたが、いつでもどこでも自分が追っている罪や重荷を捨て去れるのは本当にすんごいことなんだなと、ペットボトルを両手いっぱいに掴みながら思ったそんな1日でした。

驚きや感動の表現に対して、あまりにもボキャブラリー不足なのを痛感しますね!ええ!

ABOUT ME
でんでん
神様の次にベースが大好きなキリスト教福音宣教会の関西人。 INFP-Aの内向型人間。営業に片足の太ももぐらいまで突っ込んでる企画職。神様の「愛」・「赦し」を表現するサウンドクリエイターになりたくて色々奮闘中。