これスーパーぶっちゃけ話なんですけれどね。
キリスト教福音宣教会で信仰生活をしていると、
「そんなにダメダメっていうならさあ、もうどっかに閉じ込めてくれよ~」
って思うことがたくさんあったんですよね(笑)
ダメって直接言われることもある。ダメって言われていないけれど、非言語や雰囲気で伝わってくる感じもある。
神様の中でできる代替方法を教えてから、「ダメだからこっちに変えようね」って言ってよ〜〜〜!!もしくは一緒に考えて〜〜〜!!!
(でんでん、信仰1年目の心の叫び)
あっはっはー。
そういくらそう願っても肉体は幽閉はされないのである。
今日も社会に出て行くのだ。社会的~!(ちょっと批判的発言)
でもでもこんな状態じゃ考えのキャパが狭くなっていく。
どんどん活力と発想力を失うのだ。
やっべ、生きてるはずなのに死んでいく
肉体はもちろん、御言葉を聞いて神様を愛して生きているから霊体だって生きているはずなのに。なぜだ。生きた心地がしない。
思わず私の心の中にあるサイレンが鳴る。
あれ、御言葉って自由じゃないの・・・?
「真理はあなたを自由にする」って聖書にあるんだけど・・・?
・・・と思うこと、早数年。
なんとなく原因がわかりました。
あぁ、そうか。
神様についていく私たちが勝手にいろんなものを「ダメ」って縛っていたんだな。
日本でクリスチャンが少ないということから想像に難くないように(?)
神様の御言葉を題材にした娯楽って少ないんですよね。
だからYouTubeのキッズチャンネルかのごとく、教会では私たちの見るもの聞くものを制限するのである。信仰を守るために。
悪くはない。悪くないんだ。わかるんだ。
だがしかしお菓子。
そんな不自由な時代は終わったのだ。
鄭明析先生は常に新しい信仰生活の分野を作り続けている。チョウン牧師といろんなことを神様の中で企画して実践している。音楽、Vlog、教育プログラム、自然聖殿、スポーツなどなど。
いろんなことをされながらも「神様の御言葉は絶対」は貫き通すから、すんばらしい信仰と神様愛と発想力である。脱帽だ。(そもそも先生の前では帽子取るけれどさあ)
というか「生活の中で御言葉を軸にして神様を迎えて楽しんで生きる」ことを先生は私たちに推奨しているのに、この不自由さを感じる状況は如何なものか。私は物申したい。
「CGMの中で何もできない」と苦しむ必要はないのだ。
だがしかし!やはり日本社会!薄れてきたとはいえ徹底的な上下社会の中、人生の先輩方や目上の人を敬う文化の中で育ってきた私たち!上の人の反応が気になる!
ということで、CGMの牧師や指導者の皆さん、温かく見守ってください。
私たちが目に見えて信仰が悪くなったら止めてください。でも案外大丈夫だと思うので、やりたいことをやれるように見守ってください。この場を借りてよろしくお願いします!笑
ないなら作ればいい。多分、今までやる人がいなかっただけ。
マリーアントワネットではないですが、この一言です。ええ。ないなら他から探すのみ。
どうしても「好き」を諦められないなら自分で自分の需要を満たすのです。
一から創作できないなら真似っこから始めたらいい。
あるものを組み合わせたらいい。少し変えれば作品になるのです。
模倣は第二創造になるのです。ええ。そういう本を読んだことがあるし「ごもっともだ」って思った。
第一創造は神様が天地万物を造られたことを指すよ!人間は神様が作ったものを組み合わせていつも新しいものを生み出しているんだよ!物質から思想までね!
昨日MiK姉さんと話していたんだけれども、神様の御言葉を題材にいろんなことやったほうが楽しいよ。神様の御言葉と自分の生きた証を作品に残した方が楽しいよ。
今の不自由な状況は「いろんなことをやっていいという許可がない」というよりかは、「やる人がいないから発展しなかった未開拓分野」が作り出しているのだ。
だから私は創作するぞ。自分の音楽生活のために。ボカロPするんだ。ミクに歌ってもらう。自分の好きな音楽たちを全部御言葉や信仰生活を元にした賛美歌に変えて昇華するんだ。
好きなものは否定できないのです。
だから私は神様の中で好きなことをして生きていくのだ。