教会と信仰のあれこれ

「今まで生きてきた自分の人生がとても貴重だった」と気づいた話

(2020年9月6日追記)
以前書いていたブログの記事を引っ張ってきてみました。2020年以降の記事がこのブログに移行してきてからの記事です。昔の文章はテイストが違うなと思うので見比べてみてください。笑

明けましておめでとうございます!

新年1記事目のブログです!

1/2の水曜日に礼拝がありました。

その時に「はっ!」とする御言葉を聞いて。

人間が死ぬという根拠があります。

絶対に死ぬという根拠をみんなが知っていることでしょう?

何を見れば分かりますか?

毎日死んでいくでしょう?

毎日みなさん死んでいきます。

1日にして死ぬのではなく毎日死んでいきます。

(鄭明析牧師の御言葉より抜粋)

私たちの肉体が「死んだら二度と生き返らない」ってのは聖句にも書かれています。

そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、(ヘブル人への手紙9章27節)

一度だけ死ぬことが人間に定まっていると。

それで!!

私が感銘を受けたのは『毎日死んでいく』という表現!

今まで『生きてきた』と思っていたけど『死んできた』んだ…!と衝撃を受けました。

聖書にはこう書いてあります。

「過ぎた日はすべて死んだ」と言いました。

みなさんも過ぎた日は死んで、20歳の人は20年死んだのです。50歳の人は50年間死んだのです。

これから残っている期間だけが生きているのです。

既に死んだ。

細胞も死にました。

20年成長したなら成長期だと言います。

23、4年からはだんだんと細胞が死んでいきます。100万個ずつ死んでいきます。1日に。そしてまたできます。死んで生じる。

しかし生じるものは死ぬものほどではないのです。

だからだんだんと70、80歳になると少ししか残っていません。

毎日死んでいきます。

(鄭明析牧師の御言葉より抜粋)

難しい感覚なんですが、

私の人生25年弱を「生きてきた」と考えるとちょっと疲れるんですよね。

「まだこれから先を生きなきゃいけないんだ…」みたいな。プレッシャーに潰されそうな感覚を持っちゃうんですよね。

なんでしょうね。前しか見させてくれない、みたいな。

「死」という区切りがないと、”現在”と目の前に迫っている”少し先の未来”しか見えないって気がするんですよね。過去を振り返る余裕がないというか。

逆に私の25年を「死んできた」と考えた時、過去自分がやってきたこと・感じてきたこと1つ1つが貴重に思えてきました。

毎日「死」で区切られるので、1つ1つを振り返ることができる。

自分の過去を「死んだもの」として見ると、不思議と冷静に過去を振り返られる私がいました。

第三者視点だとこうだなあ…とか、相手からしたらこうだったんだなあ…とか、いろんな目線で物事を振り返ることができました。不思議!

未来の自分もいずれ死んでいくんだと考えたら、「今この時が大事だなあ」って思えるようになりました。

残っているものしかないから、その残りをどう生きるか。

毎日死ぬとしたら、あと私は何回死ぬのかわからないけれども、その1日1日が愛しく感じられました。なんでだろうね本当。

だから、『人生は有限だ』ってことをわかって、

死ぬ時には「やりきった!生ききったよ私!お疲れ様!関わってくださったみなさんありがとう!」って思って死ねるように、今日も全力で生きていこうと思います。

ABOUT ME
でんでん
神様の次にベースが大好きなキリスト教福音宣教会の関西人。 INFP-Aの内向型人間。営業に片足の太ももぐらいまで突っ込んでる企画職。神様の「愛」・「赦し」を表現するサウンドクリエイターになりたくて色々奮闘中。