どーも。どーも。
眠たいけれど書きたいから更新しちゃうぜー!
いやもうタイトルにもありますけれど、
気分が沈むの、結構嫌いじゃない自分がいる。
一定期間沈むのはやぶさかではな・・・好きですね。はい。
センチメンタルな感じとかさ、退廃的な感じがね。
めっちゃ好きなんですよね。
はじめて公の場で公表したわ。笑
私は<性善説>激推しですし、
<人間は幸せになるために生まれた説>激推しなのですが、
「ずっとハッピー!幸せ!」な状態はないと思っています。
そのうち幸せを感じる閾値を超えちゃって逆に何も感じれなくなりそう。
<幸せ>を<幸せ>だと感じるために<悲しみ>や<苦しみ>があると思っています。必要悪ってやつ?
幸せな人生の<味変>ってやつですよね。薬味的な?
最終的に幸せに行き着くためのいいスパイスなんですよ。
「幸せに生きる!」ってことを忘れなければ、苦しみや悲しみは幸せの後押しになるんだと思います。
ちなみにですが、私の沈んだ気分が続いた最長記録は約2年半です。
もう「病む」とはまさにこのことだと思ったよね。
「私には生きている資格がない」「死にたい」
「あぁ、ここで首を締めたら死ねるんだな」まで行きました。
死ぬのが怖いのと痛いのが苦手なのでやらなかったけれど。
「今思い返せば沈んどいて良かった」って心の底から思えます。
一山越えたからこう言えるんでしょうけれども。
でも当時(中3~高1)はがむしゃらに観察・分析・実践・反省をひたすら繰り返して抜け出したんですよね。で、ポジティブバカになった。真理の御言葉知らなかったのによくやったわ本当。
今なら思う。「あの時にキリスト教福音宣教会で御言葉を学んで、神様を知っておけば吹っ切れるのは早かっただろう」と。まじで中高生で御言葉学びたかった。本当に。
いろんなメンバーと話してて思います。
神様を信じるようになって「真実の愛」「生きる意味」がわかったけれど、神様に出会うまでにあった出来事の傷や大なり小なりのトラウマが癒やされていない人も多いんじゃないかなあと。
何様やねんって感じですけれど。本当に思います。
でも御言葉がいいのがわかっているから無理して走っちゃう。辛いぜ。
過去のマイナス感情にはとことん向き合っていいと思います。自論ですけれども。
何故かというと、御言葉を聞くことで<人間のあるべき姿>を教えてもらうことと、過去の自分が癒されることはノットイコールだと思っているからです。
御言葉を学べば「絡まっているよ」「それは本来解けているものだ」と知ることはできる。
けれどもわかっただけで解けていないんですよ。
神様と一緒に解いてこそ、「本来の解けている姿」になれるわけですよ。
知ったからといって、現実に反映されるわけではないから。
これを勘違いすると、「神様信じているのに辛い」「神様はこんな私を愛してくれない」状態が続く。(と、私は分析している)
御言葉を聞いたあとに過去の傷を癒すことがその人が神様に繋がる近道だと思っています。
神様掴んだ自分を褒めて、過去の自分も連れてきたらいいんだよ。御言葉で解いてあげたらいいんだよ。
どれだけ時間がかかっても、一般的に「よく信仰生活してる」って走り方ができなかったとしても、過去の自分と向き合うべき。年単位なんてばっちこい。神様はそれぐらい待ってくださるというか、そういう過去も全部まるっと愛して解きたいと思ってくださっているはず。
過去のしがらみが解けたらびっくりのスピードで走れると思う。重荷を捨てて、主のくびきだけ負えると思う。そしたら軽いし楽。
その最中にはものすごく気分が沈むこともあるし、
訳もわからず涙がひたすら流れることもあるし、
どうしようもなくなって消えたくなることもある。
あって結構!コケコッコー🐓(古いな)
むしろどっぷり浸かった方が早く出てこれる。実体験。
でもなー。なんだろなー。
「信仰生活」って聞くと、「悲しみ」とか「苦しみ」から無縁にならなきゃいけないって思っちゃうんだよなあ。先入観ってやつ?
だから表面的になっちゃいがちなんでしょうね。言葉も笑顔も感情も。
取り繕っちゃうんですよ。神様は自分を作ることを教えてくださるのであって、自分を取り繕うことを教えているわけではないのにね。(これ昨日友達と電話する中で出てきた)
それって本当に人間として幸せなのかなあ?って、思ったりします。
もちろん最後には神様に絶対感謝だし、絶対信頼してるって伝えるし、絶対一生ついていくってなるんですよ。ここは譲れない。譲らない。
でもさ、その道中に自分の感情もしっかり出しながら神様についていかないと、心が死んでしまうと思うの。それこそ植物状態かロボットよ。
そういうのって楽しいんかなあ🤔?って最近ずーーっと考えてる。
なんだろう。どう言葉にしたらいいんだろう。
「いい人間になろう!」と思うと「浮世離れ」になるってやつ?
俗世から離れている感じ?悪くないと思うんだけれど、面白みもない。
人当たりのいい笑顔とか、差し障りない言葉遣いとか、親切心とか、ちょっとむずかゆい。その人らしさってあるのかなあって。もちろんある人もいるんだろうけれど・・・。カモン、ボキャブラリー。私は今表現に困っているよ。
過去の自分をなかったことにしたり、放ったらかしにすることって、傷口をずっと放置しているのと一緒だと思っています。
それなのに「ただひたすら喜びなさい」って言われてみ?めっちゃ痛いのに嬉しそうにしないと「そんなもんじゃない」とか言われちゃうんでしょ?拷問じゃん。
傷を治してターンオーバーさせてから笑おうよ。
傷が治るまでは膿ができるし、膿取ったら傷口に触れるから痛いじゃん。でも衛生的に絶対必要なの。かさぶたになるじゃん。剥がれるじゃん。ターンオーバーで戻っていくじゃん。
そうやって心を修復していけるのが神様の愛なんだなって私はずっと思ってる。そう感じてる。最後まで修復できるのは神様の愛じゃないとダメなんだって思っている。親や兄弟や友達や恋人の愛では足りないんだなって。
そういう感じです。
諦めずに生きていれば「幸せ」が絶対に最後にあると思っていたし、神様が「幸せになってほしい」と思って創造されたことも学んだから、どれだけ落ち込んで悲しくなって気持ちが滅入ってしまっても、最終的には前を向けます。
そういう時の自分の気持ちに向き合うと、遠い存在に感じる神様の心も少しわかるような気がするのです。「神様もこの聖句の時はこんな感情だったのかなあ・・・?」って思えるようになってくるんじゃないかなと思います。
だからネガティブ感情に向き合うのは結構好き。学べることが多い。
ただし、<怒り>。あなたは別だ。別枠だ。帰りなさい。
怒りの感情は基本的に嫌いです。
筋の通った反骨精神はどんとこいですけれど。
なんだかなあ。こういう話は話す人を選んでしまうんだよなあ。
出せるところを探したらブログにたどり着いた。
こっちの方が不特定多数の方に届くのになんでだろうね。
それだけブログが私が等身大で入れる場所なのかもしれないね!