「何としても礼拝を守ってください。そうした時に極致のしるしが起きるのです。」
今日のクリスマス礼拝の後半で聞いた御言葉。
「ほんまそれな」って心の中でアーメンを叫びました。
目が覚めたよね〜〜〜!!!
どんだけグータラでも、御言葉は何としても聞くべきなんだ。
どんだけ聞く気がなくても、御言葉が始まって30分経ったぐらいでいきなり耳に入って来て脳に刺さったりするんだ。それまで適当に聞いていたとしても。
起き上がる気が起こらない時も
疲れて眠たくて白目むいちゃう時も
姿勢良く座るのが辛い時も
座ると寝ちゃうから立って聞くときも
どこかで何か悟ったり、ハッとする。
私が掴むべき御言葉が聞こえてくるんです。
こういう時は大体ワンフレーズかいち文脈で、その日の御言葉の1/10ぐらいかもしれない。でもその一言を掴めたならOKじゃん?だってこんな体制じゃないと聞けないぐらいの私が、御言葉を聞いてみるというアクションを取っただけで拍手喝采じゃん?みたいなね。笑
はじめっから最後まで集中して聞けなくても、「礼拝を守るポーズ」を取っていたらどこかでスイッチが入るタイミングが来るから今考えてみると本当に不思議。
神様の御言葉って本当に私の心を動かしてくださるわ。
・・・というね。
御言葉が右から左に流れていた時間と、よく聞けていた時間は半々ぐらいだったけれど、いや、これはもう、今日は私つかんだわって思っているもんね😂
まず今日クリスマス礼拝が11時にあって仕事で守れなかったんですよ。
でも帰宅して(19時ぐらい)ブログ書こうとしたらクリスマス礼拝のことを思い出したんですよね。
ブログ書きたかったし、他の作業もしたかったので「わぁ・・・聞かなあかん・・・聞く気ないなあ・・・どーしよ」ていうなんとも言えない気持ちで後追い再生のボタンを押す私。
全然乗り気じゃなかったけれど、スイッチが入った瞬間が2〜3箇所ありました。グータラに戻った瞬間もたくさんありましたけれど。多分明日になったら絶対聞かない。笑
鄭明析先生が御言葉をたくさん用意してくださるから、毎日御言葉がたくさん聞けるんですよね。
本当に感謝だし、先生も「毎回緊張している」と教えてくださるぐらい努力もしてらっしゃる。
だから「1回ぐらい聞かなくていいや」とは到底思えないのもあるな。「どんなにグータラな姿だとしてもその日中もしくは次の日に聞く!!」って感じで5年間やって来ました。
まあコンディションがあるからさ、ね。
「あかんコンディションで礼拝を守る気分じゃないとしても、御言葉聞くポーズ取って神様に進みでることが神様へ愛を告げていることやん?」とか思いながらぐーたら礼拝を守っている私がいます。笑