教会と信仰のあれこれ

「どんなことでも」って御言葉なのに、自分で勝手に「ここからここまで」って決めてる

ウロコ友達と昨日話してて気づいた。(もうウロコ友達って書き方が普通になってしまったw本名に1個もかすってないのにwごめん!)

今週の主題と聖句見てほしいんですよ。

この主題のね、「どんなことでも」って御言葉。これ。これです。これ。主題聖句にあるやつ。

14:13わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。 14:14何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。

ヨハネによる福音書14章13-14節

御言葉の中でもこのようにありました。

誰の名前で求めるか、それが本当に大事だ。責任者、使命者、主人の名前で行うことだ。「そうしたら責任を取る」ということだ。

2021年3月31日水曜礼拝「主の名前で求めればどんなことでも私が行おう」より

「主(しゅ)」という言葉、メシアを指す言葉にそれぐらいの権力があるわけです。主の名前を使えば「主から許可もらったんで!」と神様へ顔パスできるわけです。それぐらいメシアが神様にとっても大きい存在なのです。

主の名前でいつも行いなさい。そうすればうまくいく。どうして使わないのか。思う存分使いなさい。主は白紙の小切手と同じだ。

2021年3月31日水曜礼拝「主の名前で求めればどんなことでも私が行おう」より

昨日ウロコ友達とあれやこれや雑談している中で、神様は「どんなことでも」って仰っているのに、無意識のうちに自分で「これは願い求めすぎ」「この辺りが無難」「私には大きすぎる」って制限かけちゃってることに気づいたんですよ!

Anything elseじゃなくて Someting で考えてしまう。

なんでも、じゃなくて、なにか、で考えてしまう。

「どうせ叶わないだろう」っていう無意識の感覚が、今週の御言葉通りに行なう実践を邪魔するよーー!!うわん、神様あああ!!!

ちなみにですがお祈りについて。<神様がどうやってお祈りを叶えられるか>をということを知らないと誤解してしまう可能性があります。「神様、りんご食べたいです」って祈ったらリンゴジュースをもらえたりするからです。上記ツイートの<ふさわしければ、すぐに成してくださいます>という部分ですね。この場合はりんごジュースの方が相応しかったのです。その人はりんごが食べたいだけでなく喉も渇いていたのかもしれません。リンゴをもらってもナイフがなくてすぐに食べられなかったかもしれないですね。だからジュースにした。

祈り求めた時の状況は本人と神様だけがご存知です。はい、この辺は講義ではっきり聞けますのでそちらで是非。


神様は核心を掴んで行われるので、願った内容の言わんとする要素を自分が掴めていなかったら勘違いが始まるのです。「神様やってくれねーじゃん」って誤解しちゃったりします。神様について正しく知るのって大事。神様を正しく知るためにメシアが送られているので、メシアについて書かれている聖書を学べば神様について知れるってことですね。


そういや昨日、「みなさん一度、主の御名ではなくて自分の名前で神様に祈ってみてください。確認してみてください」って御言葉を聞いたのでやってみた。

私「えっと、私が今まで神様を知って悟るようになってたくさん賛美もして、御言葉をたくさん実践してきました。不完全なこともたくさんあるのでこんなこと言うのもおこがましいですが、それでも神様を信じているので私の名前で願い求めm・・・なんか全然祈りが届いている気がしないですわ」

この後「主の御名で祈ります」って言ったら最後まで祈れました。

最近は神様にプレゼンすることにはまっています。「このお祈り聞いてくださったら神様にとってもめっちゃ良いと思うんですよね〜〜〜〜」って。お祈り頑張りたいね。

ABOUT ME
でんでん
神様の次にベースが大好きなキリスト教福音宣教会の関西人。 INFP-Aの内向型人間。営業に片足の太ももぐらいまで突っ込んでる企画職。神様の「愛」・「赦し」を表現するサウンドクリエイターになりたくて色々奮闘中。