今週の御言葉、主題が「絶対信仰」でした。
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“絶対信仰”とペアになっているんじゃないかというぐらい、キリスト教福音宣教会でよく聞くのが“絶対愛”。
御言葉で<信仰>って言われた時には<愛>についても点検して、<愛>って聞いた時には<信仰>についても点検するのがいいのかもしれんね。と密かに思っています。神様から人間に向けた愛、つまり神様が私にくださる愛を誤解すると、私の信仰生活も思うようにいかなくなるんだなあと感じる最近。
<愛の核、愛の本質>は、全人類のすべての人たちみんなが公平に享受できる「脳の愛」です。全人類すべての人たちが公平に享受できる「脳の愛」。
ところが人々は<脳の愛>を知らないから、肉、「異性的な相手」や「自分を慰めて愛してくれる人」ばかりを考えて、「寂しい」といいます。
(鄭明析)先生は毎日証をしました。「私は神様との愛、御子との愛に本当に浸っている。溺れている。迫害が来ても大丈夫だ。この愛に本当に深く浸っているので、大丈夫だ」といつも告白しました。だから、愛しているから、愛の黄金の城を手に入れるのです。
<愛の核心、愛の本質>は「脳の愛」です。<御言葉の核>は「愛」です。<愛の核>は「引き上げ」です。<愛の核>は「脳の愛」、<御言葉の核>は「愛」。<愛の核心>は「引き上げ」です。(・・・中略・・・)だから、御言葉を学びます。
2014年10月1日 愛の本質は「脳の愛」だ
ピンと思いついたところだけ抜粋。
<愛>についての御言葉を読んでいると<信仰>のことを自然と考えちゃいます。切っても切り離せない関係なんだなあと思っています。
自分の肉が何かに縛られている人たちが多いです。
主のことを誤解したり、自分の主観に溺れて考えたり、世の中に溺れていたり、異性に流れていたり、さまざまなことに縛られている人たちが多いです。そして同じことを何回も言います。「できません。自信がないです。力もありません」。そのまま長く続いたら折れると言ったでしょう。 そうして結局その<縛られていること>によって「問題」が生じ、結局「罪の主管圏の中」に入るようになります。
2016年9月11日 主日礼拝「自由意志 しかたがある信仰としかたがない信仰 」より
主のこと、天のこと、自分のことについて誤解すると<脳の愛>を忘れがち。いつも御言葉聞きながら神様が私をどれだけ大事に思ってくださるかを感じるような点検しようね、私・・・。
で、話は変わって。
絶対信仰と絶対愛には「絶対」という文字が含まれています。
人によってこの単語に様々な印象を持つとは思いますが、まずは辞書で調べてみた。
ぜっ‐たい【絶対】[名・形動]
1 他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。「絶対の真理」「絶対な(の)存在」「絶対君主」
2 他の何ものにも制約・制限されないこと。また、そのさま。「絶対な(の)権力」
3 ⇒絶対者
4 (副詞的に用いる)
㋐どうしても。何がどうあっても。「絶対に行く」「絶対合格する」
㋑(あとに打消しの語を伴って)決して。「絶対に負けない」「絶対許さない」「絶対反対」
私は「絶対信仰」と「絶対愛」という字面から「どうしても。何がどうあっても。」っていうオーラを感じてます(笑)。「何がどうあっても信仰」「何がどうあっても愛」。これって言い換えると「揺れない信仰、揺れない愛」「変わらない信仰、変わらない愛」「永遠な信仰、永遠な愛」になると思うんですよね。
「あれ、でもこれ、人によって感覚やニュアンスが違うのかもしれん?」
そして今日の昼のツイートに繋がる。。。
あくまでこれは私がやるなら。決して「絶対これが正しい!」というわけではないんです。
なぜこう思うかというと、私は「信仰生活をずっと続けている」=「何があっても神様と共に、主と共に」=「変わらない」ことだと理解しているからです。でもね、実際の生活を見たら変わりまくっているんですよ。私。考えがね、コロコロコロコロ。心定めてるつもりなんだけれどなあ🤔
だからどれだけ変わったとしても、あかん方に行ったとしても、神様と違う感覚で過ごす期間が長かったとしても、最後まで神様と生きることを「変わらない」と表現したい。私はそういう信仰者でありたいってことを言いたいが故に2000字弱の文字を打ち込むというね。笑
こういう「神様への変わらない愛」「神様との永遠な愛」は人の数だけ表現方法があると思っているのでみんなのが聞きたくなったんですよね。匿名で募集できへんかな。。。
それでギャラリー作るの。楽しいと思う。全員の作品が優勝もんだわ。全部に花丸つけて展示したい。