・・・と思ったりする今日この頃。
お正月なんでね。実家に帰るわけですよ。
そして、久しぶりにテレビを見るじゃないですか。新春特番とか。
面白いよね。かなり笑いました。
社会人として働くようになってからテレビ番組に対する認識感が変わったんです。
『多くの人が見てくれるような「売れる番組」を作り上げている「娯楽のビジネス」なんだ』と。
いやあ、業界の方からすれば当たり前だと思うんですが、一視聴者として初めてそう感じたんですよね。
子どもの頃は純粋に楽しそうに見えましたけど、「仕事」なんだなあって思いました。彼らすごいな。
本来の自分じゃない自分を「自分」だと魅せているパターンが見受けられるんですよ。
『売れるためには<自分を殺してでも>人に気に入られる必要がある』ってやつですかね。彼らの仕事への本気度が見えます。その真剣さは見習わなあかんなあ。
本人の性格や考え方が基本の土台になっているとは思うので、ある程度の無茶振りとかなら笑って見れます。むしろ「新しいこと、ちょっと上の次元のことに挑戦していてすごい!」と思うぐらいです。
でもでも「え?めっちゃしんどそうじゃない?無理してない?無理しすぎちゃうか・・・?」「ほんまにそれしたいと思ってる?」と思ってしまうぐらいに極端に頑張っている方々を見ると、私はちょっと気持ちが離れてしまいます。
純粋な面白さではないから、素直に笑えないんですよねえ。
困った。面白いことは好きなのに。
イジリも愛があれば笑えますが、愛がなければ笑えない。そんな感じ。
体張ったりイジるようなお笑いより頭を回して楽しむお笑いが好きなのは、こういうところからきているのかもしれない。
話は少し変わりますけれども。
私自身は、礼拝デビューした後に「教会が求めている人材」になろうと思っていた時がありました。
なんでかっていうと、やっぱり「神様の御言葉がすんばらしい!!神様すげえ!!私も神様のためにできることしたい!!でも何したらいいかわからない!!あ!教会は一番神様が公式的に共にされるから教会がやろうとしていることに全力で取り組めばいいんだ!!」と思ったからなんですよね。
間違っちゃいない。だって多くの人が教会に来て御言葉を聞いて楽しく生きることを神様は願ってらっしゃるもんね。教会よ、栄えよ。
だから、まずは教会内で個性を伸ばすのが一番いいんじゃないかなと思います。
私も始めはそうやってやって来たおかげで、ある程度万能な人になりました。歌う人から配信する人まで。かなりの使命を網羅したはずです。人手が足りない時に呼んでもらえたら大概のことはこなせる様になりました。『困った時に登場する人』になりました。笑
普通ならそれで満足といいますか、幸せと言いますか。だって必要とされているところで使われるなんてこれ以上ない働きじゃないですか。
まあでもね、私はそれでもなぜか遣る瀬無かったんですよね。
「本当にこれがしたいのか。これで幸せなのか。」と。
人には喜ばれるけれど自分が喜べない。
もうこれは苦痛でしかないよね。「人に喜んでもらっている」という献身精神しか残らないもん。「自分が得るもの」が何もなかった。
あとあと悟りましたが、教会のために自分の個性を使うことは、私にとって「教会の人が”こういう人がいてほしい!”と願っている才能」を使うことだった、と。
もちろん教会を発展させるために神様がバンバンお使いになられたい個性の才能を伸ばして使われる人もいるでしょう。それはそうしてください。他にブレずに。
「学校」「職場」「教会」で求められる人材になることは大事。
でも、それ以上に「神様が与えてくださる個性=タラント」を最大限生かすことが本当に大事でした。
その個性は人目線で使われているのか、神様目線で使われているのか。
線引きが難しいラインですね。祈って判断しないといけないやつですね。
人の考えはすぐに変わるから、関心や興味が移ろい行けばすぐに干されます。
人の評価はなんて不確実で儚いものだろうか!!(いきなりの演劇調)
だからテレビとか見ていると何処と無く悲しくも感じます。
その時の流れと雰囲気で持ち上げられたり干されたりしますから。本人の努力や想いにそぐわないことなんてたくさんあるんだなって思います。その中でもがきながら人は生きています。
神様の世界でも同じなんだろうなって思います。
人目線で見てしまうと、その時の流れと雰囲気で生かされている個性と殺されている個性があるんだろうなって。
生かされていたら「そのまま伸ばしてくれ!」って思うし、殺されているならば「その場所じゃなくていいから伸ばせ!!」って思っちゃいます。
「神様から見た自分の個性」が教会内で使えるものなら思う存分使えばいいし、教会内では使えなさそうならプライベートでちゃっちゃか使っちゃえばいい話です。
それを止める摂理の教会ではないと思います。神様の中で好きなことやればいいんだよ〜。
私みたいな人は、教会外の方がのびのび「自分」を活かせるんでしょうね!そういう人は遠慮なく教会外でも信仰生活をかっこよくすればいいんですよ。
「神様が一人一人に与えてくれている個性」が活かされれば、自分自身が誇りでしかないし、他の人もそういう風に見えます。
私の周りの人全員お願いだから栄えてくれ、って心の底から思います。
どれだけ時代が変わっても、新しい環境に突入したとしても、「神様がくださった私」が生きるならばいくらでもアップデートしていけるんです。他人がどう思おうと関係ないのです。私の人生だー!
テレビを見ながら悟ったことは、
「人が求めるもので自分を作り上げると限界がくるし、それを守り続けるのはしんどい!」
「唯一無二の個性を解放できる場所は神様の世界だけだ!」
ってことです。
まあまあ、そんなこんなで。
娯楽を作り出す制作側・スタッフ・出演者・番協の方々たちは「コメディアン」で「努力家」なんだなあと感じるようになりました。
本当に彼らはすごいわ。芸能界で生き残るって並大抵の努力じゃできないよ。
その時その時の「人が求める面白さ」ではなくて、神様が見ている「無理に飾っていないその人にしかない個性」が溢れて、見る人も作る人も幸せになる番組が増えますように。