今日は朝起きる→祈る→ヨガする→礼拝準備→礼拝守る→昼ごはん→御言葉振り返り→社会人向け御言葉聞く→家族とお墓まいり→友達と電話→ブログ書く(今ココ)→ランニング→お風呂→聖書読む→明日の準備する→寝る、という1日になりそうです。やっぱり日曜日忙しい!
お墓まいりの道中で父親に「体力ないのが悔しいから昨日ランニングしてん」と言ったら「ランニングは少しずつでも毎日せな意味ないやろ」と言われました😂ごもっともで!
今日の御言葉の中で、一番印象に残ったことの1つは「生活と説教は一体になっています。神様は私たちに生活から離れたことをおっしゃることはありません。意味がないからです。説教の次元が高くてよくわからないことがあったとしても、生活の中であったことを話してくださいます」という部分でした!
聖書ってそういえば読んでみると生活の中で出来事が書かれているんだなあ、って思いました。
旧約時代も神様を信じる信仰生活が描かれていますよね。祭壇を捧げて、祈って、断食して・・・。その当時の人々の生活を神様がご覧になって「こうするように」と仰る。それを預言者が代弁してみんなに伝えて、人々がどう生きていったのか、っていうのが書かれている。
特に旧約聖書は当時の文化をわからずに読むとちんぷんかんぷんなので、ある程度学んでおくことが聖書を楽しく読むコツなのかもしれない。6000年〜2000年前のことだしね。
新約聖書も、イエス様が弟子達と生活する中で<その時に必要な御言葉>を伝えていらっしゃったんだなあと思ったのです。特にヨハネによる福音書はイエス様とニコデモ、イエス様とサマリヤ女、イエス様とベテスダの池にいた病人、といった生活の中での1対1の対話で「こう考えなさい」「こうしなさい」と伝えてくださっている記録が書かれています。
そういえば私、聖書を学ぶまで『聖書って現実とかけ離れているもの』だと思い込んでいました。けど、確かに読んでみると<生活>なんですよね。<神様と生きる生活>。日常生活だったんだなあ、って。
日常生活の中で、「神様はどういう方なのか」、「どういう考えを軸に持っていたらいいのか」ということをイエス様を始め、聖書の中心人物達は伝えていたんだなあって。
聖書って神聖な書物だとばかり思っていたから、<日常が記録されているもの>だとは考えてもいなかったなあ。見方を変えれば聖書は<神様とメシアのことがわかる日記>なんでしょうねえ。
聖書という日記の中に、神様について、メシアについて、人間について、生きる意味についてなどの大事なことがたくさん散りばめられているんだ!そういう価値のある書物だ!なるほど!私は身近に感じられました。笑
「大事なことが書かれているから気合い入れて読まなきゃ!」って聖書読む時には変に緊張感を持っていたんですが、それがなくなるかもしれない。やったね!
<私の生活に共にされる神様>なので、そういう感覚を少しずつでもブログで具体的に表現していきたい次第ですね!
よし、ランニングに行ってきます!昨日は朝に走ったので、朝と夜どっちに走ったら続きそうかを検証してきます🏃♀️🏃♀️🏃♀️