小心者、神様に出会う

小心者、「好奇心の塊ガール」になる

この話は中学終わり〜高校生のあたりの話なので今執筆しているものからはかなり先の出来事になるのですが、今週(と言うかさっき聞いた今日の明け方)の御言葉の流れに合うなと思って先にこっちを書くことにします。

私の友達は大体私のことを「器用」「何でもできる」「うまい」「万能」と言ってくれます。とってもありがたいことですが、こうなったのもちゃんと理由があります。理由があるのです。と言うことは裏を返せばみんなもできる。

別角度で「器用貧乏を極めている=これも私の個性なんだよう!」って記事を前回書いているのでそちらもぜひ読んで見てください。今読んで見たらネガポジな書き方しているので読み返して面白かったです。私の精神的な調子が記事のテンションにも現れているのを感じると思います。笑

さて、本題に行きましょう!
高校生時代、私の原動力は「楽しそう、私もあれやってみたい」という好奇心でした。

きっかけは母親の死です。(いきなり重い。でも何回か書いてる。この記事とか。)

40代後半で乳がんで亡くなったんですけれど、それまでは毎日仕事もするわ家事もするわテニスしてるわ友達とも遊んでいるわ、毎日フル活動していたんですよ。本当に。今考えてもすごいと思う。自分が社会人で一人暮らしするようになってから尚更思います。仕事しながら4人分の家事ってすごいや。もちろん父親も休日は手伝っていましたし、私と弟も微々たるお手伝いはしていましたよ!

まあでもそんな活動的な母親も病気に勝てなかったのです。

初期がんが見つかったと聞いた中2の私、そして母が亡くなった当時高校1年生の私、とてつもない衝撃を受けました。「こんなにも早く亡くなってしまうことがあるのか」と。老衰以外の死を始めて目の当たりにしました。

『人生、たくさんのことを見て聞いて良いものを味わって生きないと損だ。私の命もいつ終わるかわからないぞ。悔いのない人生を生きなければ』と思うようになりました。

「生きててよかった!と思える人生を送る」と決意した私。
次に考えたことは『どうやったら人生の甲斐を享受できるか』ということでした。

当時高校生の私の幸せの判断基準は、①心からの笑顔で笑えること、②何でも楽しめる考え方をすること、③いろんな世界を見てやりたいことをすること。

みんな笑顔だったら楽しいし嬉しいじゃない。でも作り笑い、君はダメだ。感情がバカになる。

②と③を思うようになったきっかけがありましてね。
私が「別にそれおもんないやん」と思うことを楽しそうに話していている友達がいたんですよね。多分ね、その時は文庫本だったと思うんですけれど。

その時に気づきました。

「私の好みではない」と決めつけてしまって、世の中に転がっているいろんな面白さを知らずに生きてしまっているのではないか・・・!と。

なんてもったいないんだ!私が考えているよりもっと世界は広いし多くのワクワクで溢れているというのに!世の中にあるものを全部楽しめる人になったら人生を楽しめるはずだ!!

好奇心のかたまりガール、誕生の瞬間である。

この「好奇心」1つで、様々なことを「面白い!楽しい!」と言って挑戦するようになりました。
自分が面白くないと感じてしまうことでも、「いや、見方を変えればどこかに必ず<面白さ>があるはずだ!」と思えるようになりました。

おかげさまで文系理系関わらず「どっちも面白いんだ」と思えるようになり(面白いって思うけど得意でない教科もいっぱいだ!笑)、芸術もスポーツも好きになり(部活動やサークルで運動部にするか文化部にするかで悩んでいた)、選り好みすることが減りました!

明るいものもダークなものも、私の生活環境・財政・時間を使えるだけ使って見たり、聞いたり、知ったり、経験しました。
「たくさん色んなことを知って、やりたいもの・やっても自分にも他人にも迷惑をかけないものだけやる!」みたいなスタンスでした。

おかげさまで(?)たくさんのことを学んだと思います。
こういう楽しみ方がある、こういう考え方がある、こういう感情がある、こういう事実がある、こういう捉え方がある、こういう理想がある、こういう表現の仕方がある・・・。
いろんな種類の『楽しい』に触れました。
ご飯を食べること、勉強、ライブに行く、楽器を弾く、センチメンタルに散歩する、ゲームをする、スポーツする、全力で走る、自然に触れる、風を感じる(絶叫系とか)、想像する、表現する、創り出す、向き合う、わかり合う、高め合う、褒め合う、仲直りする、落ち込んでみる、分かち合う、笑顔になる、笑顔にさせる。

『楽しい』に触れたら『趣深い』にも触れるようになりました。
だって、ちょっとネガティブなやつとか、沈むこととか、消えることとか、花が落ちることとか、楽しい!訳ではないと思うんですね。
そういうのは『趣を味わう』ことを楽しんでいました。

ここまで書いたところで、私の表現がうまく伝わっているか心配になってきた・・・笑

ちょっとだけ脱線しますけれど、『好奇心も使い方を間違えたらいけない』んですよ。

今日の明け方の御言葉でこういうことを言っていました。

自分が食べたいものを食堂に行った時に、「私はリブがいい」「私はカルビ」「私は豚足」そのように自分の器通りに天国が成されるので自分の天国です。自分の趣向、考えを間違うと大変です。

「自分の趣向、考えを間違うと大変です」と聞いてピンときました。

『同じ「お肉を食べたい」と思っても、人の肉を食べたいと思うのは倫理的に間違っているんだな。それと同じように、好奇心も<良い好奇心>と<悪い好奇心>があるから区別しないといけないんだな』と。

なんでも楽しみたいとは思いましたが、例えば盗みだったりとか、人の悪口を言ったりとか、殺人を楽しみたいとは一切思いませんでした。
言葉って難しいですね。『なんでも』って言っているのには『どんなものでも良いわけではない』んですよ。

楽しむのは良いけれど、<楽しむもの>を間違えると結果自分が苦しくなるよ。

ってことでしょうね!きっと。

好奇心も使いよう。笑
でも好奇心があって損したとは思わないです。やらかしたこともありますけれど、それ以上にスキルとか経験とか感覚とか得られたものが大きいからです。

あと、良かったといえば「やってなんぼだ」って思えるようになったことですかね。心で理想を描くときも嬉しいけれど、実際にやってみた時にもっと嬉しい。好奇心があればどんどんやっていけちゃう。楽しめちゃう。良いことばっかりじゃーん!

好奇心はうまく使ったら自分のスキルと経験値が上がるって話がしたかったんです!
好奇心が行きすぎて飽き性になりかけた時に神様に出会いました。笑
「神様の世界は無限大だ〜」と感じて、『毎日新しいものに出会う感覚』=『好奇心が刺激される環境』を取り戻しました。
その辺りもまた書きたいですね。気が向けば。。。

ABOUT ME
でんでん
神様の次にベースが大好きなキリスト教福音宣教会の関西人。 INFP-Aの内向型人間。営業に片足の太ももぐらいまで突っ込んでる企画職。神様の「愛」・「赦し」を表現するサウンドクリエイターになりたくて色々奮闘中。