教会と信仰のあれこれ

『神様を信じる=未来が決められてしまう』現象について【ゆるっと考察】

最近、私の中で判明したことがありましてですね。
多分そこそこ的を得ていると思うんですよ。
というわけでゆるい気持ちで楽しんでくださいな。

『宗教に属したら「あなたはこう生きなさい」と決められてしまう』と感じる現象についてのいくつかの考察。

ばーーーん!!

私、ちょくちょく考えていたのです。

なぜ「神様を信じる」「聖書を学ぶ」ことが「人生を決められてしまう」という結論に結びつくのかを。

例えばですけれど、あなたが<この人の言葉なら信頼できる>という人を考えてください。友達でも親でも恋人でも先生でもビジネスで成功している人でもいいと思います。そして今、あなたの目の前に来てもらってください。
じゃあ、その人に『あなた、神様を信じて生きるのが一番いい生き方です』って言われたとしましょう。その時のあなたの一発目のリアクションはどうでしょうか?

おすすめだよー

『なんてこった、〇〇が言うなら確かに良いかもしれないけれど、私の自由な人生は詰んだ』

・・・って思いません?
なんかもう、聖書とか神様とかそういうのをすっ飛ばして、「私の人生の自由さはなくなった」みたいな感じになりません?

私は思う自信ある。100%思う。

でもね、でも私、やっぱり思うんです。

ぴーん!

紐解いてみると、実際『神様を信じて生きること』なんて何百万通りもあることに。

なんなら人の数だけ方法がある。

例えば、まず神様を信じる人たちを大きく2つにわけてみましょう。

いわゆる「祭司」「牧師」「シスター」のように自分の一生を神様に捧げて生きる人たち、そして「教徒」「信徒」「信者」として教会に通ったり教えを受ける人たちに分けられるでしょう。

まず牧師さんとかの「聖職者」の方からいきましょうか。

イメージ図。

「聖職者」って聞くと、礼拝を中心になって捧げたり、御言葉を伝えたり、教会のみんなをよく見てくれたり、神様の御言葉をどうやったら実現できるか考えて実行してるイメージじゃないですか。実際そうなんですけれども。

一生そればかりをしているイメージがどうしても拭えません。

聖職者=一生教会にいる。一生聖書読んでる。ただひたすら。ひたすら。他には何もできない。みたいなイメージが拭えないんですね。

でも実際CGMの牧師さんたちが何してるか見てたんですよ。釣りしてたり、ビジネスしてたり、園芸してたり、スポーツしてたり、ストイックにしてたり、工作してたり、ペット愛でてたり、みんなとご飯会していたりと人それぞれなんですよね。

それから、私のような「信徒」と呼ばれる人たち。『神様の言う生き方賛成!私もそう生きるわ〜〜』って人たちです。
これも年齢・性別・学歴・職業・趣味趣向は様々。もう人の数だけパターンがあるわけですよ。

私は結婚していない社会人なので、その層だけの話で申し訳ないんですけれどね。教会の中心事業に関わりながら生きる人もいれば、創作活動で花開く人もいれば、企業して頑張っている人もいれば、団体を立ち上げて活動している人もいるのである。その生き方まさに数百通り。その人の好きな通りに、やりたい通りに生きられるのである。鄭明析先生の言い方を借りるならば、『千層万層』あるんですよ。

だからまあ正直教会の人たちの分布図作ろうと思っていたんですよ。視覚的に見た方がわかりやすいじゃないですか。

多様すぎて作れねえ。

それから信仰について。

私たちもそうですけれど、きっと信仰を持たない人たちもそう思っているんじゃないかと思っているんです。

こう思っているんじゃないかと。

教会の仕事をしている人ほど信仰が良いと思いませんか?
ですが、案外そうではない場合も多いと思うのです。神様から見るなら。


いい教会使命(教会での仕事)をしているか=信仰が優れていると、すぐに結びつけることはむずかしいのです。
逆を言えば、礼拝の時しか教会には行かないけれども、牧師並の信仰を持って生きる人だって普通にいるわけです。

きっと牧師の生き方が人生で最高ならば、この世の仕事は「牧師」しかなかったと思うんだ。・・・自分で書いといてあれやけど、おもんないなそんな世界。
いちばん自分が神様と人生を謳歌できる位置を選んで、苦楽を共にして、生きる楽しみを味わうのがいちばん良いのです。
なので、実際にCGMで信仰生活している人たちはこんな感じで過ごしています。もしくは過ごそうと努力しています。

だから私は神様を信じる人たちはこういう目線で見ています。

一番下は信仰「有」ね。

その人がどこまで神様に向き合えるかなんですよね。
「私」がどれだけ高みに挑戦できるか、なのです。
だから信仰する意味があるんですよね。
生まれた時から「あなたはこのレベルまで到達して人生終わります」って決まってたらやる気も何も出てこない。信仰生活も一緒です。自分がやる分どんどん高みまで行ける。

でもねー、なんで教会通っている人のイメージが世間では固定化されるんだろうね?

「教会に通っています」っていうと「シスターみたいな生き方している」って思われるの。
あれか、日本にクリスチャン少なくて具体例を見れていないからか!
症例データが少ないとイメージが固定化&されるやつ!!

あれでしょう?今でこそオタクはいろんな格好、世代の人って認識持てるけれど、「オタク」って言われ出した時は、カラーシャツイン・ジーパン・メガネ・リュックのセットが「オタク」だから「あなたもそういう格好する人だったのね」みたいな。

今だとこういうのか?にこにー!

だからあれでしょう。シスターとか牧師ではないんだけれど「教会通って神様信じている」って言う人に対して『へえ、私と変わらん生活しているけれど本当にちゃんと神様信じてるの?』って思っちゃうの。
違うやん!ちゃんと信仰生活してはるんだって!すみません!

やっべ、私、神学部出身の友達いるんですけれど、好きな音楽とか似ててよく遊んでいて生活の仕方も私とあんまり変わらんから心のどこかで「にわかクリスチャン認定」していたかも・・・今度遊んだ時、謝ろう・・・。
クリスチャン(に関わらず宗教に属して信仰を持っている人たち)に対して偏見持ちすぎ・・・!!(ブーメランで私にぶっささる言葉である。)

この記事の総括は一言だな。

\さよなら先入観!/

ええ顔してるな・・・。
ABOUT ME
でんでん
神様の次にベースが大好きなキリスト教福音宣教会の関西人。 INFP-Aの内向型人間。営業に片足の太ももぐらいまで突っ込んでる企画職。神様の「愛」・「赦し」を表現するサウンドクリエイターになりたくて色々奮闘中。