教会と信仰のあれこれ

祈っているのに毎回の礼拝で御言葉を全く悟れなかった信仰1~2年目の私。

実る時まで勤勉にするのが大事だね。

新入生の時、礼拝を守るたびに焦っていました。御言葉で言っていることはわかるんだけれども、悟れないんですよ。説教で言っていることは理解できる。けれども、自分のものになる感覚が全く持てなかったんです。『私のための御言葉だ!』って思えなかったんですよね。

ほんで、礼拝の後に御言葉を深めるタイムがあるんですよ。同じ大学の子たちと「今日の御言葉はこうだった〜」って話す機会があるんですね。私はね、全然喋れないんですよ。喋ることがないというか。何を話したら良いのかわからないみたいな。
でも他の子たちは私より1~2年長く走っているのもあって(?)「これを悟りました〜!」「こういうところに気をつけて1週間過ごそうと思います〜!」とか言っているのです。わたしはもっと焦りました。そんな分析できねえよって。

わー無理ー

礼拝に出るようになってからめっちゃ祈っていました。めっちゃ門を叩いていました。
マタイの7章にもありますもんね。「求めよ、探せ、門を叩け」。
「悟りたいです。神様が言わんとすることを教えてください。どういう未来を見て今地球を動かしているんですか?」って祈り倒していました。それから先生が「神様が願うことをして差し上げたい」というスタンスで信仰生活をされているからどんな感覚なのか知りたかったんです。そして真似っこしてみたかったんですよね。

そんな祈りを繰り返すこと1~2年。

超楽しい。

祈りの味を占めました。だいぶ御言葉が聞けるようになって来ました。神様が言いたい事が少しずつわかってくるようになって来ました。神様が見ているビジョンを少し見せてくださっているように感じました。年単位でたっくさん悟らせてくださいました。御言葉の実践から悟ることができるようになりました。


とりあえず見よう見まねでやっていた信仰生活が実り始めたわけです。自分のものになってきたわけです。これは楽しい。信仰生活の味を感じ始めた瞬間でした。
ここから祈り倒すでんでんが爆誕し、その2年後ぐらいには御言葉で自分の人生をたくさん考えて選び取るような力強い人間に成長していくわけです。(自分で言うかw)

今日も私は祈る。

・・・・・という過去を忘れていたんですよね!!!笑

今日の御言葉を聞いて、そういえば「今御言葉についていけているのも勤勉に祈って来てからなんだよなあ」ということを思い出したのです。いやあ。マジでぽっかり抜けてたね。どうしたもんだか。
「忘れたら死ぬ」「過ぎた日の経緯を忘れるな」この御言葉に限ります。

ABOUT ME
でんでん
神様の次にベースが大好きなキリスト教福音宣教会の関西人。 INFP-Aの内向型人間。営業に片足の太ももぐらいまで突っ込んでる企画職。神様の「愛」・「赦し」を表現するサウンドクリエイターになりたくて色々奮闘中。