雑記

「贅沢」したっていいじゃない、2020年だもの

 

QOLを著しく高めることを決意。

 

 

私にはどうやらぼーっとする時間が必要のようです。

そっちの方が1日を爆走できるというか。

 

 

いつも頭がフル稼働するんですよね。

見たもの聞いたものから連想ゲームが始まってあれこれ色々考えちゃう。

もちろんそれで助かる部分はたくさんあるんですよ。

作業や仕事を早く終わらせるのは得意だし、効率厨にもなれていますし。

でもずっとそんな感じだと頭がオーバーヒートします。

落ち着かなくなる。笑

最近は落ち着けなさすぎて寝れなくなりました。笑

 

 

 

昨日、大学の後輩と3時間ぐらい電話という名の雑談をしていたんですけれど。

この時間がよくってよくって。

穏やかな感じ。落ち着く感じを久しぶりに取り戻しました。

 

 

 

そして気づく。

「私には何も考えない時間が必要だ」と。

 

 

 

先週にも他の後輩と話していた時に、「ハンモック買いたい!」と意気投合。

次の日に購入しました。まだ届いてはいない。楽しみ。

その子が100均でスノコを数枚購入してベランダに敷き詰めて日向ぼっこしていたんですよね。羨ましい。

何が言いたいのかといいますと「贅沢するの、私には必要だな」って思ったんです。

 

 

 

神様を信じるようになって、信仰生活というものを始めてほぼ5年。

なんかねえ、『何でもかんでもストイックにせなあかん』っていう<宗教に対する固定概念>があったんだなあと感じるようになりました。

なんというか、この世からかけ離れている感じ?浮世離れ感ってやつ?

『神様に仕えること、お祈りや御言葉を聞く事や賛美をすることなどをし、それ以外はしちゃいけません!』って思っていました。

 

・・・・・そうじゃなかったと昨日痛感しました。笑

 

 

 

 

今週の礼拝で教えてもらった御言葉の中で、『今の時代の信仰は易しいから、今式にやりなさい』とあったんですよ。だいぶ要約しましたが。

 

今から約6000年〜2000年前。旧約時代の時。

もうそれはそれは神様を信じて生きる信仰生活がとてつもなく大変でした。

まず<割礼>がばり痛いらしい。ちょっと調べたけれど頭痛くなったわ。

 

それから事ある毎に神様に牛・羊・鶏をほふって捧げるんですけれど、これがもう色々と細かい。細かすぎる。

例えばですけれど、旧約聖書のレビ記を読んでみてください。ルールたくさん。やることたくさん。覚えられへんぐらいです。

レビ記1章3節-9節

1:3もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。 1:4彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。 1:5彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。 1:6彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。 1:7祭司アロンの子たちは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを並べ、 1:8アロンの子なる祭司たちはその切り分けたものを、頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。 1:9その内臓と足とは水で洗わなければならない。こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。

これが、羊&やぎver.と鳩ver.もある。

 

さらにこれは燔祭のやり方です。他にも素祭、酬恩(しゅうおん)祭、罪祭、愆(けん)祭、任職祭・・・。

どんだけあるねん。祭司はレビ人と一緒にずーっと動物をほふったり焼いたり決められた場所に血を注いだりしています。体力も時間も必要よなあ。

2020年の日本でこれをやれと言われたら、「いや、1日でも無理・・・」と思ってしまいます。

 

 

それがイエス様が来られたら完全になくなりました。

旧約の時代は割礼を受けないと信仰者と認められなかったそうですが、イエス様が来られてからは<メシアを信じるという心>を持てば割礼の意思表示ということになり信仰者と認められるとのこと。

元々ユダヤ教の信仰を持っていたパウロも以下のように記してあります。

ガラテヤ人の手紙2章15-16節

2:15わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、 2:16人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。

 

 

時代が進む毎に信仰も易しくなっているんだと教えてもらいました!

「ほんまや。よく考えてみると易しくなってるわ」と、本当に思うわけです。

 

 

 

 

『昔式にやったら全てが大変です。そうしたら全てができません。』

『神様は多くのものを与えた。それをもっと良くすることが予定されている。特別な罪でない以上はどんどんやりなさい』

これが今回の礼拝の私的2大ハイライトです。

 

 

 

おかげさまで、『信仰生活とは一生ストイックでなければならず一息もついてはならない』という図式は私の中で崩れ去りました。笑

神様から知恵と最高の考え方をもらって、一緒に人生のビジョンを考えて、最高に生きれればいいんだと思うようになりました。

というか、神様はそう私に願っていたのに私が変な宗教観を持っていて気づかなかっただけだわ。

 

 

ストイックにするのが好きな人、好きじゃなくてもそういう風にやってみたい時にはそうやったらいいんですよね。

私もストイックが嫌いなわけではありません。毎日をエンジン全開で生きるためには私はぼーっとする時間、贅沢する時間との両立が必要なタイプでした。メリハリを思いっきりつけたいタイプです。

達成感を味わいたいから理想高く目標を掲げる。実践しているときはしんどいからそのあとのご褒美タイムを贅沢に準備するのが私の<一番活動的に動けるスタイル>だなって思い出しました。笑

 

 

 

もちろん贅沢しすぎたら人生を爆走できないタイプもいるし、小さいご褒美をたくさん用意したら頑張れるタイプもいると思います。他のタイプも。

神様のタイミング(礼拝とか)には合わせながら、1人1人の一番爆走できるスタイルを確立するのが今式の信仰生活なんだろうな〜と思ったそんな日。

 

 

 

 

ハンモック早く届かないかな。

早く日光浴しながらぼーっと聖書読みたいんですよね。

ABOUT ME
でんでん
神様の次にベースが大好きなキリスト教福音宣教会の関西人。 INFP-Aの内向型人間。営業に片足の太ももぐらいまで突っ込んでる企画職。神様の「愛」・「赦し」を表現するサウンドクリエイターになりたくて色々奮闘中。