人の話を聞いていて「うらやましい!私も!私も!」ってなりがち、でんでんです。
「御言葉通りにしたらこうなった!」とか「祈ったらこうなった!」とか「神様がこうしてくださった!」という出来事を人に伝えることを「証(あかし)」と言います。
2:1兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。
コリント人への第一の手紙2章1節
キリスト教福音宣教会でも、他の教会でも証をたくさんします。それだけ神様が共にされていることを知ってほしいからです。大体の反応は「ハレルヤ〜〜〜」です。笑
これは言語外に「よかったね〜〜〜」という思いが込められているなと感じております。
でも、時たま、証の内容によっては「うっ、羨ましい( ; ; )!私だってできるもん!」「へ、へえ〜〜〜(嫉妬)」みたいなハンカチを噛みしめるような思いになることがあります。え、ありません?あれ。私だけか。私はあります。
The☆嫉妬
自分がそういう風にしたいけれど全然できない。
でもあの人はできている。私がそうなりたいのに。「なんで〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?!?!?」となるわけです。
もちろん、そうなるに至った経緯や努力は並大抵のものではないので「ハレルヤ〜〜〜!!」と反応します。でも裏では「なんなん!?羨ましい!私にだってできるし!!」とか思うんです。笑
右も左も分からない時って無駄に焦るじゃないですか。「こうしたらええで」という御言葉の内容が、実践していないから現実味を帯びていない時期。その時に教会のお姉さんが、「わかるよ〜〜。私もこういうことがあったけれど、お祈りしてたらわかるようになったから大丈夫だよ」とか言ってくれるんですよね。
「それはあなただからできたんだよ!私には無理!自慢か?自慢なのか?」
と、素で思っていました。完全に嫉妬です。笑
改めて振り返るとかなりやな奴でしたね。私。笑
しかし、あるワンフレーズを思い浮かべることでだいぶ解決することができるようになりました。
「私もそういう状況になり得るんだな。」
というワンフレーズ。
3:15今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。
伝道の書3章15節
「だから先にこういう話を聞けている。いつか私もそうなり得るぞ」
ということです。
なめていてはいけないのです。いつかは起こり得ます。笑
私は御言葉を学び始めた時、ヨナ書や、ヨシュアとカレブと一緒にカナンの地を見に行った10人の捜索隊の部分を読んで、「いやいや、こんなん私絶対にしませんわ」って思っていたんですよ。
ヨナ書ですヨナ書。絶対こんなことないわあって思っていた。
詳細は私のブログ記事をご覧ください。
「ヨナ書だけは一生無縁だ」と思っていたけれど、今そのような状況です。【びっくり】
13:25四十日の後、彼らはその地を探り終って帰ってきた。 13:26そして、パランの荒野にあるカデシにいたモーセとアロン、およびイスラエルの人々の全会衆のもとに行って、彼らと全会衆とに復命し、その地のくだものを彼らに見せた。 13:27彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。 13:28しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。 13:29またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。
民数記13章25-29節
↑神様が「ここに行けばいい」と仰ったカナンの地に対して、偵察しにいった人が「いい土地やったけれど、私らがエジプトで奴隷生活している400年間に強そうな人らいっぱいすみついとったわ。いい土地やけれどカナン取り戻すの無理やで」って言ったやつです。
そしたら神様がこのように仰っていました。
14:11主はモーセに言われた、「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがもろもろのしるしを彼らのうちに行ったのに、彼らはいつまでわたしを信じないのか。 14:12わたしは疫病をもって彼らを撃ち滅ぼし、あなたを彼らよりも大いなる強い国民としよう」。
民数記14:11
この辺も教訓としてBSで学べると思います。
過去の話や、兄弟姉妹の証って、今後の私の人生の参考にになる部分があるね。
ということに気づいたんだ。思ったより長くなっちゃった。